大工だった父に憧れ、家の車庫がきざみ場だった頃から木と共に育ってきました。
仕事一筋な父であまり遊んでもらった記憶はありませんが、母や姉、また祖父祖母曾祖母にしっかりと愛情こめて育てて頂きました。なにより父の背中を見て育ちました。
幼稚園の頃の夢は「大工の社長になる」でした。
その頃から私の夢ははじまっていました。
北陸の小京都と呼ばれる大野には、元々3人の宮大工がいました。
其の内の1人、廣瀬棟梁の匠の技を受け継いだ父の元、愚直にいい家、住みやすい家を追求し、辿り着いたのが健康な家でした。
大工だった父に憧れ、家の車庫がきざみ場だった頃から木と共に育ってきました。
仕事一筋な父であまり遊んでもらった記憶はありませんが、母や姉、また祖父祖母曾祖母にしっかりと愛情こめて育てて頂きました。なにより父の背中を見て育ちました。
幼稚園の頃の夢は「大工の社長になる」でした。
その頃から私の夢ははじまっていました。
父と同じ道を目指し、建築関係の専門学校を卒業した後、他人の窯の飯を食べないと1人前にはなれない という父の勧めもあり福井のゼネコンに現場監督として働きだしたのが私の建築人生の始まりです。
最初の1年はほうきを持たされ、現場の掃除と先輩の手元ばかりでした。残業なんか当たり前、休日出勤当たり前の大変厳しい現場でしたが、素晴らしい先輩たちに恵まれ、仕事は楽しかったのですが、私の求めていたモノとは違うと感じ、その会社を辞め、父に弟子入りしました。
大工の仕事は難しく、ノミやカンナの刃を研ぐ事や墨付けなどを習い、やっと大工になれた喜びでいっぱいでしたが、工務店という仕事上大工仕事だけではなく、解体や足場組など他の仕事もしなければいけない状況でした。
大工に理想を求めていた私は、それらの仕事に嫌気がさし、家出同然で一度この仕事をやめました。若気の至りとはいえ家族や会社の皆に大変迷惑をかけました。しかし、やめていた時にふと目に留まるのは嫌でやめたはずの家づくりの現場でした。
私だったらこうするなとか、この家はいい材料使っているなとか、改めて自分は家づくりが好きなのだという事に気づき、父や会社の皆に頭をさげて一からやりなおさせてください。とお願いしました。
父の元で修行して5年、自分で家を建てられるようになった私は、徐々に設計・見積りをまかされるようになりました。いい家を造りたい。一生に一度の大切なお客様の家を自分の家を造るのと同じように考え、愚直に模索してきました。
いい家とは何だろう。常に考えながら、お客様のニーズに応え、ありがとうと言われる為に日々家づくりに励んできましたが、何かしっくりこない、もっといい何かがあるのではないかと考えるようになりました。
集成材を使わず、無垢材にこだわりいい家づくりを目指してきましたが、こんなに建築技術が向上したにも関わらず、シックハウス症候群や、お風呂と脱衣場の温度差で健康を害する人が後を絶たない事に、どうにかならないものかと考えていた時に出会ったのがまずはタイトモールド工法という基礎断熱でした。
基礎を断熱することで、家の中の温度のムラを防ぎ、床暖房をしなくても冬、床が暖かい工法を取り入れました。家の中の温度差の問題はこれで解決しました。
次はシックハウス等の問題です。どうしたものかと考えていた時に、自然素材と出会いました。これでいい家を超えた健康住宅が作れると確信しました。
仕事で疲れた体を癒してくれる我が家。子供たちの笑顔が溢れ、笑い声が絶えない家庭に、まず大切なのはお客様の健康だと思います。住む家が健康でなかったら、住む人の健康がどうして守れるのでしょうか。
昔の家にはシックハウス症候群なんて存在しませんでした。それは昔の家が自然素材で作られていたからです。
現代の建築技術に自然素材を使った家はいい家を超えた健康住宅になります。
お客様の健康と家の健康を守るのが私達の使命です。
今、自分たちだけが暮らせればいいと家づくりをされる方が増えています。
しっかりとした本物の家を造れば、子供たちそして孫の代まで家は生き続けます。何世代も御家族を守り続ける本物の家をぜひ手に入れて頂き、心からの笑顔とありがとうの為に精一杯の家づくりをしていきます。